ヘリパイが飛んだ関東~JAL123便御巣鷹山墜落~
2016/12/13
1985年8月12日JAL123便が御巣鷹山に墜落した日、結婚したばかりの私は盆休みで羽田発福岡行きの航空機に乗っていました。もし航空機の取り回しで事故機が羽田発福岡便に使用されていたら今の私はいませんでした。
事故発生は1830ですので暗くなる頃のことでした。
航空自衛隊のV107救難機が現場に向かいましたが、夜間作業ができる装備が不十分だったため救難活動はしなかったそうですが、暗くなるまでなぜしなかったのか疑問です。
暗くなって現地に行くのは大変だと思いますが現地についていたのなら危険でも救助活動をするのが自衛隊だと思います。
米軍も現地に到着したという記録もありますがなぜ日本側は救助依頼をしなかったのか分かりません。当時の縦割り行政の問題があったのでしょうか。
当時、陸上自衛隊は夜間暗視ゴーグルを装備していませんでしたので、暗くなってからの災害派遣要請では事故現場に近付くことさえできなかったと思います。
ヘリには着陸灯やサーチライトを装備していますので、照明を使用すれば救難活動ができると思われるでしょうが、飛行中に照明を点けても長い光の帯が空中にできるだけでその先を照らすことはできません。
地面が目で確認できる高度まで下がってやっと地面に光が届く程度です。墜落当時はまだ生存者がいたようですが、明るくなるまで救助活動ができなかったことから亡くなった方も多かったと聞いています。
この事故を教訓に自衛隊は夜間暗視ゴーグルを導入しました。ゴーグルを付けて真っ暗な山中を飛行すると、まるで昼間のように樹木や道や山間が確認できました。
しかし視界が狭く、まるでトイレットペーパーの芯を通して外を見ているようなものでした。電線などの線条障害物は全く見えず当時の米軍は線条障害物に引っ掛かる事故が多発しました。
自衛隊は導入しましたが使用に関しては慎重な扱いをしています。特に災害時の夜間使用はしていないと思います。
しかし、東日本大震災の時は現地がどうなっているかも分からず夜間に飛行する時は裸眼での飛行を基本としながらもいつでもゴーグルが使用できるようヘルメットに装着して飛行していました。
夜間に大変な災害が発生して救助が必要な時は、ゴーグルを使用して救助活動を完遂してほしいと思います。
話は逸れますが、米軍は一人でも戦場で孤立し敵の攻撃を受けて救助が必要になった場合は、危険を承知で一人のために救助作戦を行うと聞きました。
その信頼が戦場での勇敢に戦う力になるのだと思います。自衛隊も自分の安全を考えるのではなく、国民のために必要なら自分の危険を顧みず作戦をする勇気と信頼を築いてほしいと思います。
横田アプローチの管制
学生教育で一番学生が困ったのは横田アプローチとの交信でした。相手は外人ですので日本流英語ではないのです。本物の英語で話しかけてきます。「Say Altitude leaving」「No factor」など学生の能力では意味不明で学生によっては恐怖を感じるようでした。
これは日本がICAO方式で管制を行っているのに対し米国はFAA方式で管制を行っているため使用する管制英語が少し違うからです。
関東を飛ぶときはほとんどの場所で横田との交信が求められますので慣れが必要です。
しかし横田とだけ交信していれば済むわけではなく、厚木や入間、立川など東京近郊には様々な飛行場がありますので黙って飛んでいるととんでもないことになります。管制圏・情報圏への進入離脱時のご挨拶は必須です。
東京コントロールは女性管制官
東京コントロールとの交信は、横田アプローチがドキドキするのと違ったドキドキが味わえます。
女性管制官が良く対応してくれるからです。男性にとって女性の声を耳のそばで聞くのは心地よいものです。
なめらかで優しい女性管制官の声を聞いていると安全に飛行できることへの感謝の気持ちが芽生えますとは言い過ぎでしょうか。
天気が悪い中、なにかと無理を言ってもよく調整に応じてくれる男性管制官にはとても感謝していました。
富士山の頂上
空を飛んでいて一番見たいものは何?と言われると富士山の噴火口の中でした。なかなかあの高度まで上がって見る機会はあっても実際に見たのは1度きりです。
富士山頂上付近は気流の乱れを感じて危険を感じるのです。何千時間のパイロットの勘が「やめとけ」とささやくのです。風が少ない時に1度だけドキドキしながら思い切って御鉢の中を覗いてみました。
登山をする方たちは3776mを歩いて登るところをヘリでひとっ飛びするわけですから、ずるいと言われても仕方ありません。見てはいけないものを見ているような罪悪感と興奮を感じました。
東京湾アクアライン
木更津飛行場に何度か行く機会がありましたが、目にするのは東京アクアラインの海ほたるでした。
川崎から木更津を結ぶ海底トンネルですが、約10kmの海底道路トンネルは日本最長だそうです。
木更津側のアクアブリッジから海ほたるまで橋沿いにヘリで見ましたが、海が荒れても大丈夫だろうかなど余計な心配をしながらも人間はこんな海の中に何とすごいものを作るのだろうと感心して見ていました。とても作ったとは思えなかったのです。
空中衝突事故
平成9年のことですが、木更津から離陸した自衛隊のCH47編隊と一緒に飛行していたOH6が茨城の竜ヶ崎飛行場から離陸したパイパー練習機と空中衝突して墜落しました。
OH6は操縦士1名整備員1名で飛行していました。パイパー機も学生1名の単独飛行だったことから両機とも操縦士は1名でした。
やや視程が悪いとか1名操縦だから死角が多いとかいろんな要因が重なったとは思いますが、一人操縦の大きな問題点は無線周波数の変更などが手早くできずに外から目を離して機内を見る時間が多いことです。
2名操縦の場合1名は機外から目を離さずしっかり操縦し、もう一人が機内の機器操作をしますので格段に安全性を確保できます。
関東などトラフィックが多い地域の飛行の一人操縦はとても危険なのです。学生教育では学生と教官の2名操縦ですが、危険な場所では教官が操縦し、学生が機器操作するなどニアミスなどを起こさないよう注意していました。
ニアミス防止に重要なのは他機の情報収集です。自分の航空機の周辺を飛行する航空機の情報を管制機関から入手し、見えなくても相手の高度が通報されたにもかかわらず同じ高度で飛行していたら「ぶつかるぞ」と学生を怒鳴りつけいていました。

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