元自にーさん(元自衛官)の自衛隊ブログ

新隊員、自衛隊や自衛官に興味がある人に自衛隊について色々と学んでもらえるようなブログを目指しています。

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ヘリパイが飛んだ北海道~北海道南西沖地震~

      2016/12/13

1993年に奥尻島でマグニチュード7.8の大地震が発生し、地震による火災と津波により死者202名、行方不明28名の被害が発生しました。当時、札幌の飛行隊に勤務していましたので、すぐに現地に飛ぶよう命令を受けUH-1に担架装置を搭載して出発しました。

向かった先は奥尻空港、低い雲が発生していて雲の上を飛んでいたため、空港の位置の確認ができず札幌に帰ろうかと思っていた矢先、ぽっかりと奥尻島が見えましたのでそこから降下し空港に向かいました。空港ではターミナルが大変な損傷を受けており、水も電気も止まっていました。

現地の人から「何も持ってこなかったのか?」患者がいないのに患者空輸の準備しかしていなかった私は恥ずかしかったことを覚えています。

災害派遣で重要なのは現地のニーズに合った支援をすることです。現地と連絡も取れない状況ではニーズを把握するのが困難な場合もあります。

そこで現地に連絡幹部を派遣してニーズを把握し必要な支援をすることが必要です。



ビッグレスキュー91

志方俊之氏が北部方面総監をされていた1991年に北海道島松演習場で大規模な緊急医療支援訓練が行われました。

演習場内に作った建物の火災現場から救助したり、テロの脅威から市民を救助したりしましたがあまりにも先進的でその意義が良く理解できませんでした。

札幌の自衛隊ヘリも多数参加し、ホイスト救助やリペリングによる建物屋上への特殊部隊の降下などを訓練しましたが、千歳にある航空自衛隊基地がテロの脅威を受けた事を想定し、軽機関銃を持った特殊隊員がバリバリ射撃をしながら強襲着陸をしたことを覚えています。

この訓練の後の1995年に地下鉄サリン事件が発生し、首都圏直下型地震対応などの必要性から2000年に東京都もビッグレスキュー2000を行いました。



米軍との共同訓練

昭和57年から夏冬の年に2回FTX訓練が実施されています。私も北海道大演習場で参加しました。

地上では戦車や装甲車が米軍と一緒に攻撃を訓練しました。敵の後方に特殊部隊を送り込み撃破する作戦に米軍の輸送ヘリと自衛隊ヘリが一緒に訓練しました。

私たちのヘリを見た米軍は「ベリークリーン」と驚きました。埃ひとつ付いていないエンジン、オイル漏れは1滴もなしです。

それに比べ米軍はすごい汚れとオイル漏れ、オイルは足しながら飛行するのでOKと言っていました。毎日一緒にいると気心も知れてきて片言の英語もよく通じました。

当時はまだ顔に塗るカモフラージュペイントの塗り方もよく知らなかったのですが、米軍は全員塗っていてとても精強に見えました。

米軍の輸送ヘリは自衛隊機の後方から続くように飛行しましたが、自衛隊機より低く戦闘地域でNOEは当然と言っていました。

その後、彼らとはあちこちでよく会いました。札幌空港の航空際にUH60に乗って韓国から来たと言っていました。関東でも会った記憶があります。どこで会っても肩を抱き合い再会を喜びました。

リゾート恵庭

リゾートがあったわけではありませんが、恵庭演習場の訓練には野外ベッドを持って行って、訓練の合間には体にサンオイルを塗って体を焼いていました。

戦車連隊が航空攻撃を要求してきたときに離陸して敵戦車を撃破する訓練でした。超低空飛行で敵戦車の直上を通過し無線で「OO番撃破」と戦車に取り付けてある番号板を読むのです。

敵側から攻撃を受けないよう対空火器を制圧することもありました。実弾が飛び交うわけではありませんので思い切って飛べるところが好きでした。

夜間大雨の中で島松演習場まで偵察器材を空輸する任務を受け私はやる気でしたが、千歳空港の管制が離陸を許可しませんでした。IMCの中でもビローと言われる着陸の最低気象条件以下の天候だったのです。

演習場にいると天候判断が難しく思ったより良かったり悪かったりします。このとき離陸していたら今の私はいなかったかもしれないと思います。千歳空港の管制圏内にある演習場だったので一命を取り留めました。

予防着陸

夜間に滝川から西岡演習場に飛行中スノーバンドに遭遇しました。OH8機に私のUH1が最後尾を飛行していました。

真っ暗な中、突然の雪で前方を飛行していたOHの衝突防止灯が見えなくなり、私は副操縦士でしたが、機長を見ると急減速して速度はゼロを示し旋回を始めました。

後から機長に聞いた話では空間識失調に陥りどうなっているか分からなかったそうです。私は操縦学生を卒業したばかりの2等陸曹でしたのでまさか操縦桿に触るわけにもいかず、ひたすら「速度ゼロ、バンク右に30度」「速度増えました20kt、バンク右に40度」など計器の読みに集中し危険な状況は早めに機長に助言したのです。

後日の宴会でも機長は「僕が生きているのも君のおかげ」だと言われていました。その後、岩見沢に予防着陸し一夜を明かしましたが、後席に積んでいたテントを張ったとはいえストーブもなくマイナス20度近い厳しい夜でした。寝袋も積んでいたので最悪ではないとはいえ体が硬直し震えが止まりませんでした。



航空自衛隊千歳救難隊のUH60の墜落

1994年12月真冬の夜中のことですが救難隊のUH60が奥尻島に緊急患者を迎えに行く途中ユーラップ岳に墜落し乗員5名が亡くなりました。

このとき私たちの飛行隊にも患者空輸の依頼があったのですが悪天候のため飛行できない状況でした。千歳救難隊が任務を受けたことを知った矢先の事故でした。

判断の基準は同じですが、陸上自衛隊と防災ヘリが断ると最後の頼みが救難隊なのです。

 - ヘリパイ






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